タグ別アーカイブ: えみ

体の不思議

10月のブログを担当します、えみです。

「ヨガ」というと、一般的には、体を使うヨガ「ハタヨガ」と言われています。
私たちのヨガのクラスも、いろいろと流派・スタイルがありますが、「ハタヨガ」です。
今回は、その「ハタヨガ」で使っている体について、ヴェーダーンタというヨガの聖典のお話を参考にして見ていきたいと思います。
自分の体について、いつもとは違った見方ができればと思います。

ヴェーダーンタとは、インド伝統の知識の集合体であるヴェーダ(知識体)の中の最後の章です。この章には、「私とは何か?」について書かれています。(わかりやすく書くために、すごくざっくりとした説明ですが。)

「私とは何か?」って、わかっているような、わかっていないような、とらえどころがありませんが、体から、「私」を見ていきましょう。

さて、私が「私」としているのは、一体どこを指していますか?

私も含めて多くの方が、自分の体だと考えるんじゃないかと思います。

でも、私の体って、本当に「私」なんでしょうか?

私たちの体を作っている元素は、29種類あるのだそうです。
酸素、炭素、水素などの有機質が96%、残りの4%は、カルシウム、ナトリウム、マグネシウムなどの無機質だのだとか。
(学校の授業で勉強したはずですが、忘れていますよね。)
元素から細胞が作られ、細胞が人体を作っています。
人は亡くなると、「土に還る」と言いますが、人体の有機物が分解されて、土壌の一部に戻ります。
29種類の元素は、一時的に私の体を構成して、この体を保っているだけです。

ふつう私たちは、「体」のことを「私」と考えていると思いますが、
人体をつくっている元素は、「私」なのでしょうか?

そして、「私」と「私の外の世界」って、どこに境があるのでしょうか?
イメージとして、自分の体の皮膚を境界線にして、「私」と「外の世界」と分けて見ていると思います。

呼吸を考えてみると、
息を吸ったら、私の外にある空気が体の中に入ってきます。
この体の中に入った空気は、「私」なんでしょうか?
反対に、息を吐いたら、私の体の中にあった空気が出て行きます。
吐いた空気も「私」だったのでしょうか?
私の先生は、こんな話をしてくれました。
私を体だと思っているなら、私の爪も「私」です。
でも、伸びた爪を切ったら、切り落とした爪も「私」なのか、かつて「私」だったのか?

更に、私たちの腸の中には、100兆以上、数百種、重さで言うと約1キロの細菌が住んでいるそうです。
この体内に住んでいる細菌は、「私」ではないですよね。

「体が私」と思っていたら、よくよく考えると、いろいろと辻褄があわなくなります。
体を作っている元素などの物質も、実は「私」とは言い切れないし、
私の体と、外の世界との境界線も、実はあやふやなものでしかありません。
「体が私」というのは、何か違うのではないかと思いませんか?
元素が私の体を作り、保つことは、私個人の意思だけでは出来ないことです。
「体がある」ということだけで奇跡的なことで、その体を日常の心がけやヨガの練習で、大事に養っていきたいですね。

えみ

ハタヨガの背景

3月のブログを担当します、えみです。

今回は、最近読んだ本をご紹介します。

「ヨガ・ボディ ポーズ練習の起源」マーク・シングルトン著 大隅書店

一般的に「ヨガ」というと、体を動かして、ポーズを行う、呼吸法や瞑想、という感じで捉えられていると思います。現在日本で行われているヨガは、欧米経由で伝えられているものも多く、欧米も日本も、身体練習中心のヨガが広く普及しています。

私もはじめは体を動かすことを中心にしていました。体を使って練習を続けていくと、体の様々な不調が改善されたり、なぜか精神的に落ち着くようになったりと、練習の成果や効果がわかりやすく実感できるので、体からヨガの世界に夢中になっていきますよね。

その後、ポーズはもちろん、アーユルヴェーダ、占星術、マントラやサンスクリット語、哲学、呼吸法、瞑想、聖典の勉強などなど、ヨガの世界には、様々な分野で莫大な知識がもたらされていることを知りました。私も含めヨガが好きな方は、興味がある分野の勉強や練習を継続して深めるようになります。

私はその中でも、ヴェーダーンタという聖典の勉強やサンスクリット語の勉強を始めました。その中で伝えられることには、体に関することはほとんどありません。瞑想の時の座る姿勢について解説されているくらいです。

学んでいくうちに、私が続けている身体練習中心のヨガ(いわゆる「ハタヨガ」)との違いを感じ、「ハタヨガ」はどういう経緯で広く普及したのだろうかと疑問を持つようになりました。

そんな時に、ふと目についたのが「ヨガ・ボディ ポーズ練習の起源」という本です。
この本によると、中世のハタヨガでさえ、身体ポーズ中心であったという確証はなく、1800年代後半では、身体ポーズ中心のハタヨガは、苦行者や大道芸人等と一緒に捉えられていて、良いイメージを持たれていなかったそうです。そのため、当時のヨガ指導者たちもハタヨガを扱わず、排除していたところがあったのだとか。

そのような扱いだったハタヨガが、なぜ現在、これほどまでに普及したのか、丁寧な調査と分析によって明らかになっています。当時は植民地時代で、予想以上に欧米からの影響が大きかったことをあらためて知りました。19世紀末ヨーロッパでは、「国民の身体を鍛えて国力を上げよう」とする身体文化が発展しました。その頃に最初の近代オリンピックが開催され、インドでは身体ポーズが注目されるようになった、インドのYMCAの影響、軍事訓練の中の身体鍛錬としてヨガのポーズが練習されていた、など興味深いお話がたくさんあります。20世紀初めの約10年は、インド各地の土着身体文化を発展させつつ、欧米の身体文化と融合させる実験的な試みが活発に行われていたそうです。当時の欧米の体操とヨガのポーズの共通点があること、ボディビルディングの影響も受けていたことは意外でした。その後、現代のハタヨガの基盤が作られたのが1920〜30年代だそうです。

この時代の流れや背景を知った上で、近代ヨガの父と言われるT・クリシュナマチャルヤとその弟子達の物語を読み、現在に至る近代ヨガの流れがわかりました。T・クリシュナマチャルヤとその弟子達が自身のヨガシステムを確立して広めていった過程も、その時代に求められていたことにあわせていたようです。だからこそ普及したと思います。ちなみに、T・クリシュナマチャルヤがマイソール時代(1930年代初め〜1950年代初め)に行っていたのは、エアロビックな動きを中心にした、連続したポーズのシステムでした。それを発展させたのが、パタビ・ジョイスであり、「アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨガ」の源流です。そこから派生したシステムが、現在も生まれています。

「五千年の歴史がある」と言われている(もっと古いという説もあります)ヨガに対して、古代からの教えや行法がそのまま変わらずに、先生から生徒へ脈々と受け継がれてきたもの、という印象があったのですが、それだけではありません。時代時代によって、他の文化や人々の影響を受けて発展していったものだったのです。これからもハタヨガは、人々の要望や時代にあわせて発展していくのでしょう。その一方で、古代からの聖典などは変わらずに引き継がれていきます。この伝統と発展が、ヨガの興味深いところだと思います。そしてこの本の著者は欧米人ですが、インドの文化の中で生まれ育ったハタヨガの先生なら、どのようにハタヨガの歴史を語るのだろうか、というのも興味が出てきました。

近代ハタヨガの背景について興味のある方は、ぜひ読んで頂きたいと思います。

えみ

自分を知ること

9月のブログを担当します、えみです。

今回は、今勉強しているベーダーンタのお話を、私の思ったことを交えて書こうと思います。

突然ですが、私たちが住んでいるこの地球には、どのくらいの生物の種がいるのか、ご存知ですか?

様々な説があるようですが、カナダのダルハウジー大とハワイ大の研究チームによる2011年の発表によると、870万種が正しいのではないかと推定されています。

その中で、現在発見・分類されているのは、121万2349種。陸の生物の86%、海の生物の91%は、まだ見つかっていないのだそうです。

驚きませんか??同じ地球に生きているのに、知らない生物がこんなにいるんですね。

私たちが知っていることって、非常に狭い範囲です。私たちが「知る」には、5つの感覚を通して外界の情報を受け取って認識する訳ですが、その知覚もとても限られた範囲でしかありません。私たちが聴くことが出来る音の領域は限られています。人間は20Hzから20kHzの範囲の音しか聴き取れませんが、コウモリやイルカはもっと広範囲の音が聴き取れます。

私たちが見ることが出来る光の領域も限られています。テレビの電波やラジオの電波、赤外線は肉眼では見えません。紫外線も見えませんが確実にあるので、肌は日焼けするしシミも出来てしまいます。

科学の発達で、顕微鏡、望遠鏡、超音波装置など、感覚器官が受け取る範囲を広げてくれる素晴らしい道具ができましたが、それでも限界があるのです。

目に見える範囲で、聴こえる範囲で、触れられる範囲で、味わえる範囲で、香りを嗅ぐことが出来る範囲で、世界を知ることはできても、五感の届かないところのことを知ることはできません。

「見えるもの、聴こえるもの、触れられるものがすべてで、何でも知っている」ように思いがちですが、人間が「知っていること」は、ほんとうに僅かです。更に私個人が「知っている」ことなんて、もっともっとちっちゃい範囲です。私たちは、ほとんど無知の世界を生きていると言っても良いと思います。

ヨガの勉強をしていると、「なぜそんなことがわかるの?人間の知覚、知識や知恵でわかることじゃないよね?」と思うことが度々出てきます。ヨガやアーユルヴェーダ、天文学などを含めた、インド伝統の知識の集合体であるヴェーダ(知識体)は、その人間の感覚では知り得ない部分を解き明かしてくれています。人間が知覚出来ない範囲も含めた、壮大な世界・宇宙のしくみ、秩序、法則が書かれているのがヴェーダの聖典です。

その中でもヴェーダーンタ(ヴェーダの最後)は、自分とは何か?ということを、私が知覚できない部分もあわせて教えてくれています。私は「聖典」と聞くと、自分にとって関わりのないものだと思い込んでいました。でも、私も含めただれもがこの宇宙の中で生きていて、その法則の中で生きているので、その法則は自分自身のことでもあるのです。

この先何があるかわからない、人生は先が見えないものです。わからないから、知らないから、迷ったり不安になったりするのは当然だと思います。自分のこともわからないと、更に混乱してしまいます。自分を知ることは、先がわからないながらも前に進む道を案内してくれることなんじゃないかと思うのです。

誕生もなく死もない

3月のブログを担当します、えみです。

 

早いものでもう3月末。寒い冬が終わり、春の桜の季節です。

毎年この時期になると、この桜の時期に亡くなった祖母を思い出します。

川沿いの桜並木は満開で、華やかに咲く桜を見ながら、葬儀場に向かった時の光景が目に浮かびます。

桜が祖母を見送ってくれているのだと思いました。

祖母は亡くなっても、なぜか近くにいて、見守ってくれているような気がします。同じようなことをみなさんも感じたことがあるのではないでしょうか?

 

死とは何か?私たちは死んだらどうなるのか?

古今東西さまざまな文化や宗教で、様々なことが語られています。

 

天国に行くとか。

三途の川をわたって、あの世に行くとか。

このようなお話は科学的に証明する方法がないので、何が正しいか間違っているかを決めることは出来ませんが、ほとんどのお話は、「肉体が亡くなっても次の世界があって、肉体の死が最後ではない」と言っているのは面白いですよね。

ヴェーダ(簡単に説明すると、大きな知識体。「生物学」「物理学」というような。いわゆるヨガやアーユルヴェーダなども含まれています。)では、「私」は肉体を手放した後、この世(イハ・ローカ)を離れ、次の肉体に生まれてくるまでの間、一時的に留まる世界(ローカ)があって、それぞれの成長の度合いによって行くローカが決まるそうです。いわゆる天国(ブラフマ・ローカ)に行くこともあれば、あまり良くない世界にいくこともあるのだとか。

 

そして、私が今勉強しているヴェーダーンタ(ヴェーダの最後の章)では、このように言っています。

「誕生もなく死もなく、原初より存在して永遠にあり続ける」(バガヴァッド・ギーター)

死もないし、生まれてもいない。

物理的な肉体は土に還り、私の考えも宇宙の中へ還って行く。

私という意識は、どこにも行かない。元々宇宙全体に満ちているのだから。

 

死なないし、そもそも生まれていないって、普通に考えると訳がわからないですよね。亡くなった人の意識は、あらゆるところに「ある」から、その人が近くに感じるのでしょうか。万物に神が宿るというのに似ているのかもしれません。

私はその意味を、時間をかけて理解して、いつか聖典が言うように世界を見ることが出来ればいいなと思います。

 

桜を楽しむ時間はあっという間に過ぎてしまいます。今年も自然からのプレゼントを慈しみ、楽しみましょう!

えみ