タグ別アーカイブ: ヴェーダーンタ

間違えるということ

こんにちは。
今回のイントラブログを担当しますayumiです。

普段の生活の中で、何かを間違えたり失敗すると恥ずかしいと感じたりしますか?
笑って誤魔化したりなんてよくやってしまいますよね。

わたしは、月に2回ほどヴェーディック・チャンティングの勉強会に参加しているのですが、ヴェーディック・チャンティングでは正しい音階と正しい発音で詠唱することが重要とされています。

音階は、基準の音、基準からひとつ上がる音、ひとつ下がる音の3つの音階で詠唱します。それともうひとつ、ギターのスライド奏法のように、基準の音からひとつ上がる音までを一音の中で変えるものがあります。

3つの音階しかないのですが、正しい音階で詠唱するのがなかなが難しいんです。

そして、サンスクリット語の発音もとても難しいです。
口を大きく開けて発声することさえ、普段は全くしていなかった事に気づかされます。
更には、舌を日本語ではありえない位置にもっていくような発音があり、これも本当に難しいです。練習しているとすぐに舌の付け根が痛くなってきます。

マントラが書かれているのはアルファベットで、ローマ字のようにそのまま読めばいいのですがそのアルファベットの上下に記号で音の長さや音階が記されています。

読み慣れない文字と記号、慣れない発音、音階、音の長さなどなど、
注意しないといけないことがたくさんあり、当たり前のようにたくさん間違えます。

一番最初に書いたように、ヴェーディック・チャンティングでは正しい音階と正しい発音で詠唱することが重要とされています。

間違った音階や発音で詠うと悪いカルマが貯まるなんていう噂も聞いたことがあります。
悪いカルマが貯まるなんて、呪いのようで怖くてチャンティングの練習ができなくなってしまいますよね。

でも、わたしも一緒に練習している人たちも、たくさん間違えてできるようになるまでたくさん練習します。それはそれは本当に楽しそうに。

なぜ、悪いカルマが貯まる呪いを恐れずに楽しく練習できるのかというと、
勉強会の最後に先生があるチャンティングをしてくれるからです。

間違ったチャンティングを帳消しにしてくれるマントラがあるのです!!
(お経にも同じようなものがあるみたいです!調べたら面白そうですね。)

これのおかげで伸び伸びとたくさん間違えながら練習ができます。
間違えることで自分の苦手がみえてきたりします。

どんなことでも最初から完璧にできる人なんてきっといないはず。

日常の中で何か間違えたりしても(わざと悪い行為をしたのでなければ)
悪いカルマが貯まるわけではないし、
「間違えたら恥ずかしい」なんて呪いをかけるのではなく、
間違えた結果正しい行いができるようになっていけばいいだけです。

日常に使える帳消しのマントラがありますよね。ご存知ですか?

「ごめんなさい、間違えました。」

取り繕ったり誤魔化したりなんかせずに、
間違いを認めることで、自分自身の更なる成長に繋げていきましょう。

体の不思議

10月のブログを担当します、えみです。

「ヨガ」というと、一般的には、体を使うヨガ「ハタヨガ」と言われています。
私たちのヨガのクラスも、いろいろと流派・スタイルがありますが、「ハタヨガ」です。
今回は、その「ハタヨガ」で使っている体について、ヴェーダーンタというヨガの聖典のお話を参考にして見ていきたいと思います。
自分の体について、いつもとは違った見方ができればと思います。

ヴェーダーンタとは、インド伝統の知識の集合体であるヴェーダ(知識体)の中の最後の章です。この章には、「私とは何か?」について書かれています。(わかりやすく書くために、すごくざっくりとした説明ですが。)

「私とは何か?」って、わかっているような、わかっていないような、とらえどころがありませんが、体から、「私」を見ていきましょう。

さて、私が「私」としているのは、一体どこを指していますか?

私も含めて多くの方が、自分の体だと考えるんじゃないかと思います。

でも、私の体って、本当に「私」なんでしょうか?

私たちの体を作っている元素は、29種類あるのだそうです。
酸素、炭素、水素などの有機質が96%、残りの4%は、カルシウム、ナトリウム、マグネシウムなどの無機質だのだとか。
(学校の授業で勉強したはずですが、忘れていますよね。)
元素から細胞が作られ、細胞が人体を作っています。
人は亡くなると、「土に還る」と言いますが、人体の有機物が分解されて、土壌の一部に戻ります。
29種類の元素は、一時的に私の体を構成して、この体を保っているだけです。

ふつう私たちは、「体」のことを「私」と考えていると思いますが、
人体をつくっている元素は、「私」なのでしょうか?

そして、「私」と「私の外の世界」って、どこに境があるのでしょうか?
イメージとして、自分の体の皮膚を境界線にして、「私」と「外の世界」と分けて見ていると思います。

呼吸を考えてみると、
息を吸ったら、私の外にある空気が体の中に入ってきます。
この体の中に入った空気は、「私」なんでしょうか?
反対に、息を吐いたら、私の体の中にあった空気が出て行きます。
吐いた空気も「私」だったのでしょうか?
私の先生は、こんな話をしてくれました。
私を体だと思っているなら、私の爪も「私」です。
でも、伸びた爪を切ったら、切り落とした爪も「私」なのか、かつて「私」だったのか?

更に、私たちの腸の中には、100兆以上、数百種、重さで言うと約1キロの細菌が住んでいるそうです。
この体内に住んでいる細菌は、「私」ではないですよね。

「体が私」と思っていたら、よくよく考えると、いろいろと辻褄があわなくなります。
体を作っている元素などの物質も、実は「私」とは言い切れないし、
私の体と、外の世界との境界線も、実はあやふやなものでしかありません。
「体が私」というのは、何か違うのではないかと思いませんか?
元素が私の体を作り、保つことは、私個人の意思だけでは出来ないことです。
「体がある」ということだけで奇跡的なことで、その体を日常の心がけやヨガの練習で、大事に養っていきたいですね。

えみ

自分を知ること

9月のブログを担当します、えみです。

今回は、今勉強しているベーダーンタのお話を、私の思ったことを交えて書こうと思います。

突然ですが、私たちが住んでいるこの地球には、どのくらいの生物の種がいるのか、ご存知ですか?

様々な説があるようですが、カナダのダルハウジー大とハワイ大の研究チームによる2011年の発表によると、870万種が正しいのではないかと推定されています。

その中で、現在発見・分類されているのは、121万2349種。陸の生物の86%、海の生物の91%は、まだ見つかっていないのだそうです。

驚きませんか??同じ地球に生きているのに、知らない生物がこんなにいるんですね。

私たちが知っていることって、非常に狭い範囲です。私たちが「知る」には、5つの感覚を通して外界の情報を受け取って認識する訳ですが、その知覚もとても限られた範囲でしかありません。私たちが聴くことが出来る音の領域は限られています。人間は20Hzから20kHzの範囲の音しか聴き取れませんが、コウモリやイルカはもっと広範囲の音が聴き取れます。

私たちが見ることが出来る光の領域も限られています。テレビの電波やラジオの電波、赤外線は肉眼では見えません。紫外線も見えませんが確実にあるので、肌は日焼けするしシミも出来てしまいます。

科学の発達で、顕微鏡、望遠鏡、超音波装置など、感覚器官が受け取る範囲を広げてくれる素晴らしい道具ができましたが、それでも限界があるのです。

目に見える範囲で、聴こえる範囲で、触れられる範囲で、味わえる範囲で、香りを嗅ぐことが出来る範囲で、世界を知ることはできても、五感の届かないところのことを知ることはできません。

「見えるもの、聴こえるもの、触れられるものがすべてで、何でも知っている」ように思いがちですが、人間が「知っていること」は、ほんとうに僅かです。更に私個人が「知っている」ことなんて、もっともっとちっちゃい範囲です。私たちは、ほとんど無知の世界を生きていると言っても良いと思います。

ヨガの勉強をしていると、「なぜそんなことがわかるの?人間の知覚、知識や知恵でわかることじゃないよね?」と思うことが度々出てきます。ヨガやアーユルヴェーダ、天文学などを含めた、インド伝統の知識の集合体であるヴェーダ(知識体)は、その人間の感覚では知り得ない部分を解き明かしてくれています。人間が知覚出来ない範囲も含めた、壮大な世界・宇宙のしくみ、秩序、法則が書かれているのがヴェーダの聖典です。

その中でもヴェーダーンタ(ヴェーダの最後)は、自分とは何か?ということを、私が知覚できない部分もあわせて教えてくれています。私は「聖典」と聞くと、自分にとって関わりのないものだと思い込んでいました。でも、私も含めただれもがこの宇宙の中で生きていて、その法則の中で生きているので、その法則は自分自身のことでもあるのです。

この先何があるかわからない、人生は先が見えないものです。わからないから、知らないから、迷ったり不安になったりするのは当然だと思います。自分のこともわからないと、更に混乱してしまいます。自分を知ることは、先がわからないながらも前に進む道を案内してくれることなんじゃないかと思うのです。

誕生もなく死もない

3月のブログを担当します、えみです。

 

早いものでもう3月末。寒い冬が終わり、春の桜の季節です。

毎年この時期になると、この桜の時期に亡くなった祖母を思い出します。

川沿いの桜並木は満開で、華やかに咲く桜を見ながら、葬儀場に向かった時の光景が目に浮かびます。

桜が祖母を見送ってくれているのだと思いました。

祖母は亡くなっても、なぜか近くにいて、見守ってくれているような気がします。同じようなことをみなさんも感じたことがあるのではないでしょうか?

 

死とは何か?私たちは死んだらどうなるのか?

古今東西さまざまな文化や宗教で、様々なことが語られています。

 

天国に行くとか。

三途の川をわたって、あの世に行くとか。

このようなお話は科学的に証明する方法がないので、何が正しいか間違っているかを決めることは出来ませんが、ほとんどのお話は、「肉体が亡くなっても次の世界があって、肉体の死が最後ではない」と言っているのは面白いですよね。

ヴェーダ(簡単に説明すると、大きな知識体。「生物学」「物理学」というような。いわゆるヨガやアーユルヴェーダなども含まれています。)では、「私」は肉体を手放した後、この世(イハ・ローカ)を離れ、次の肉体に生まれてくるまでの間、一時的に留まる世界(ローカ)があって、それぞれの成長の度合いによって行くローカが決まるそうです。いわゆる天国(ブラフマ・ローカ)に行くこともあれば、あまり良くない世界にいくこともあるのだとか。

 

そして、私が今勉強しているヴェーダーンタ(ヴェーダの最後の章)では、このように言っています。

「誕生もなく死もなく、原初より存在して永遠にあり続ける」(バガヴァッド・ギーター)

死もないし、生まれてもいない。

物理的な肉体は土に還り、私の考えも宇宙の中へ還って行く。

私という意識は、どこにも行かない。元々宇宙全体に満ちているのだから。

 

死なないし、そもそも生まれていないって、普通に考えると訳がわからないですよね。亡くなった人の意識は、あらゆるところに「ある」から、その人が近くに感じるのでしょうか。万物に神が宿るというのに似ているのかもしれません。

私はその意味を、時間をかけて理解して、いつか聖典が言うように世界を見ることが出来ればいいなと思います。

 

桜を楽しむ時間はあっという間に過ぎてしまいます。今年も自然からのプレゼントを慈しみ、楽しみましょう!

えみ